展示概要

 「花嫁」という形での「女性の国際移動」は、時代も地域もこえて、広く見られる現象である。現在の 日本では、フィリピン等のアジアの女性たちが、花嫁として日本の農村に移住してくることが話題になっ ている。日本の女性たちも、戦前、そしてさらに戦後にも、アメリカやブラジルを含めた世界中に花嫁と して移住していった。女性たちは結婚を通し、男性たちとは異なるかたちで、異なる動機から、グローバ ルな移動をしてきたのである。
男性と異なる移住には、ジェンダーが重要な鍵となっている。多くの場合、海外移住は男の世界であっ た。単身で妻子を残して海外に出稼ぎに行く移民たち、あるいは夢を追って新天地へ出ていった独身者た ち、さらには家族を有無を言わせずに同伴させて新しい人生を求めた移民たち、いずれの場合にも移住は 男の決断であり、男の夢であり、移住の主導権は男が握っていた。男性が残した歴史記録では、女性たち は取り残されるか、あるいは黙ってついていった家族移民の一部であった。その歴史に女性たちの声はなく、 姿も見えなかった。ところが、花嫁移民に着目すると、女性たちが主体的に、自らの決断で、苦労を覚悟 で自らの夢をかけて海外に雄飛していった姿が見えてくる。
家族をつくるために花嫁はなくてはならない。移民社会をつくるために花嫁はかなめとなる。花嫁とし て海外移住の道を選択した女性たちは、花嫁、妻、母としての役割を引き受けたのであるが、同時に彼女 たちはその役割を基盤として、時にはそれをチャンスととらえて、自らの人生を切り開いていった。この 展示の中心テーマは、女性たちのたくましい挑戦、そして苦闘をいとわない開拓精神である。
また、アメリカやブラジルへの花嫁の移住は、トランスナショナルヒストリーの側面を持っている。日 本側からの移民送り出し状況だけを見ていては、また逆に移住先国での移民受け入れ状況だけを見ていて は、花嫁移民の全体像はみえてこない。花嫁たちの動きを中心にすえると、日本側の出移民と受入れ国側 の入移民を連続的に、トランスナショナルに、捉える事が出来るようになる。今回の展示では、国家の枠 をこえて移動した花嫁のたどった道に焦点をあわせ、その一例として、各セクションで一人一人の花嫁の 人生をたどる物語を描こうとしている。

A.アメリカへ渡った写真花嫁
「写真花嫁」とは、「写真結婚」と呼ばれる婚姻方法によって結婚し、海外に移住した女性たちをさす言 葉である。このような写真結婚は、決して日本に特異なものではなく、ヨーロッパ諸国からも、アジア諸 国からも、多くの女性たちが写真(近年はインターネット映像も)を通した結婚によって国際移動してい ることが知られている。今回とり上げたのは、戦前の日本から花嫁としてアメリカに渡った女性たちと、 戦後の日本からブラジルに移住した女性たちである。
戦前のアメリカでも、戦後のブラジルでも、家族移民の場合と異なり、独身で移住した日本人男性は、 移住国で結婚を希望しても、法的にも社会的・文化的にも、適切な結婚相手をみつけることが難しかった。 独身の日本女性が移住することがほとんど許されなかったからである。そこで、親や親戚・知人の世話に よって日本在住の女性と見合写真を交換した。さらに文通し、本人と両家の合意がえられると婚姻が成立 した。花婿不在のままで結婚式が挙げられ、花嫁が花婿の戸籍に入籍した。その後花嫁は、花婿の家で数 カ月過ごすことも多く、それから妻として夫の元に移住していった。これは見合い結婚の変形といえよう。
まず、戦前のアメリカへの花嫁移民の歴史的背景を短く捉えておこう。20 世紀初頭のアメリカでは、日本人の労働移民が急に増えたことに対して、経済的競合を恐れたり、異質な価値観・文化をもつ集団に不 安を覚えたりする人たちが、日本人移民排斥運動を起こした。日本政府は、日本人移民が法的に禁止され ることを避けるため、1908 年に日米紳士協約を締結し、日本からの労働移民を自主規制する政策をとった。 しかし日本に残った妻子の「呼び寄せ移民」は規制対象外であったので、写真花嫁がこの時期に急に増えた。 今度は増加した日本人花嫁移民が日本人移民排斥運動のターゲットになったため、1920 年に日本政府は花 嫁移民の自主規制に踏み切った(ハワイを除く)。禁止されるまでの約10 年間に、アメリカ本土へは約1 万人、ハワイへは約2 万人の日本人女性が花嫁として渡米した。
写真結婚は、日本人移民が全面的に禁止された1924 年の移民法成立の原因の一つといわれている。ア メリカ本土には、結婚は男女の合意に基づく恋愛結婚であるべきだという社会的規範が根強くあり、写真 結婚は異風として奇異の目でみられ、日本人移民排斥運動に利用されたのである。また、多くの女性が移 住することによって子どもが生まれて日本人人口が増えたことへの不安や、「妻」として入国したにもかか わらず労働力となっていることへの不満などが、排日運動を増幅した。
他方、日本人移民社会にとっては、花嫁たちは労働力として、また家族形成のかなめとして、大きな役 割を果たした。人種差別に加えて困窮と重労働に耐え、女性たちは積極的に移民としての人生を切り開い ていった。そしてアメリカ国籍をもつ子どもたちの誕生が、日本人社会の発展、日本人移民のアメリカ定 住と同化、そして地位向上をもたらすことになる。
アメリカ本土とは対照的に、ハワイでは、サトウキビ・プランテーションやパイナップル・プランテーショ ンの労働力不足を補うものとして、花嫁はむしろ歓迎された。また、プランテーションの労働力として導 入された日本人労働者が安定して働くためにも花嫁が歓迎された。映画『ピクチャー・ブライド』が描く 主人公の花嫁は、一枚の写真に人生を託し、日本では解決できない問題を抱えて、その解決のために自ら の意思でハワイ移住を決断する。ハワイでは苦悩と苦労が襲うが、それを乗り越えて新しい人生を掴んで いく。ハワイの日系社会は、そのような女性たちによって支えられ発展していった。

B.ブラジルに渡った写真花嫁(花嫁移民)
次に、戦後の1960 年代を中心としたブラジルへの花嫁移民の歴史的背景を短く捉えておこう。日本の 戦後混乱期の人口問題・失業問題の解決策として、政府の支援を受けて、農村の二、三男を中心に、多く の独身男性がブラジル農業に夢を託して移住した。そのうちの約2,500 名は、日本の全国農業協同組合中 央会とブラジルの日系農民組合であるコチア産業組合が提携して推進したコチア青年移民とよばれる青年 たちであった。コチア青年の移住は1955 年に開始された。コチア組合の日本人農家は後継者を必要とし ていたので、青年たちは、最初の4 年間農業技術習得を目標に日本人農家に契約労働者として住み込んで 働いた。1960 年代に彼らが自立・定住期を迎えたときに直面したのが、花嫁不足という問題であった。周 りに独身の日本人女性たちがなかなか見つからなかったからである。
1964 年の海外渡航自由化前は、業務渡航や留学に海外旅行が制限されていたため、日伯政府の承認を 得たコチア青年の場合と異なり、独身の日本人女性はブラジルに渡航できなかった。そこで多くの男性は、 海を越えて写真を交換して見合いをし、文通によって相手を知り、日本で仮の結婚式を挙げた。戸籍上妻 となった花嫁は、まだ見ぬブラジルの夫のもとへ旅立った。外務省の働きかけもあって花嫁の入国は認められた。また海外渡航が自由化された後も、写真結婚による花嫁移民は、1960 年代を通じて続いた。
ブラジルに渡った花嫁たちは組織的に募集され、募集活動は大々的に報道された。日本の親や親戚が個 人的に知り合いの女性を世話した場合もあったが、大多数はそうではなかった。日本の全国拓殖組合連合 会とブラジルのコチア産業組合とが連携して花嫁募集をおこない、新聞やテレビ等を通じた報道によって 募集を知った女性たちが応募したのであった。ブラジルからは毎年「花嫁募集員」が派遣され、日本全国 で花嫁募集の説明会が展開された。また、外務省の支援を受けて、小南ミヨ子氏が運営した「国際女子研 修センター」も独自に花嫁を募集し、南米の青年たちとの見合いの世話をした(他の南米諸国にも花嫁は 多数移住した)。
マスコミは、ブラジルの大地で孤独に開拓に励む青年たちが結婚できずに悩んでいること、日本からの 花嫁を待っていることを、大々的に報道した。コチアの募集に対しては数千人の女性が応募してきたが、 結婚に結びついたのは約500 名であった。また小南氏のセンターからブラジルに渡った花嫁は約220 名で あった。ブラジルに移住した女性の多くは、農村の女性ではなく、首都圏のBG(現在のOL)や官庁等に 勤める女性たちで、学歴も高かった。彼女たちは、まだ海外渡航が自由でなかった時代に、海外に雄飛し たいという夢を、写真結婚によって実現したのだった。花嫁たちの勇気ある決断は、ブラジルの孤独な日 本人青年を救うものと、日本社会から大いに賞賛された。
文通を経て、ある程度の事情をのみこんで結婚に至ったものの、当初のブラジルでの生活は思った以上 に苦しかった。言葉の通じない国で、電気も水道もない土壁の小屋に住み、農作業に明け暮れる日々であっ た。しかし多くの女性たちは自分で選んだ道であることを誇りに、さまざまな苦労に屈することなく、夫 を支えて困窮を乗り越え、子どもを立派に教育し、現在は豊かで安定した老後を迎えるにいたっている。

C.アメリカ本土に渡った戦争花嫁
日本で「戦争花嫁」というとき、一般的には、第二次世界大戦後に進駐してきた連合国軍、特にアメリ カ軍の兵士・軍属と結婚し、アメリカに移住した女性たちを指す。日本占領に参加したオーストラリア兵士・ 軍属と結婚してオーストラリアに移住した戦争花嫁も、約650 人いたと推定されている。また、ヨーロッ パ諸国に展開するアメリカ軍兵士・軍属と結婚し、ヨーロッパからアメリカに移住した戦争花嫁の数は非 常に多い。
当時のアメリカの移民法は、日本人移民を全面的に禁止していたので、戦争花嫁が入国できるようにす るためには、特別に移住を許可する法的措置が必要だった。そのため1947 年の公法213(日本人戦争花 嫁法)や、1950 年の公法717 が制定された。渡米した花嫁の数は不確かであるが、これらの法規にのっ とって夫とともにアメリカに移住した日本人女性は、約9,000 人と推定されている。その後、朝鮮戦争中 の1952 年、マッカラン・ウォールター移民帰化法が成立し、日本人移民の割り当てがわずかながら認め られるとともに、米国籍者と結婚した日本人女性はこの割り当て外で入国が許されることになった。1952 年にサンフランシスコ講和条約が発効して日本は占領期を脱した。しかし朝鮮戦争や冷戦を背景に日米安 全保障条約が締結され、米軍基地は日本に残り、米軍兵士・軍属と結婚してアメリカへ移住する日本人女 性はますます増えた。1952 年以降1950 年代末までに米国籍者と結婚・渡米した日本人女性総数は3 万人 から4 万人に達したと推定されている。
アメリカ本土に移住した戦争花嫁の場合は、ブラジルに渡った花嫁移民とほぼ同時代であったが、彼女 たちを囲む日本の社会状況は大きく異なっていた。一番の違いは、戦争花嫁が元敵国兵士と結婚したこと であった。まだ戦争の記憶が鮮明な時代、それは国を裏切る行為のようにみなされ、非難の目が向けられた。 そのうえ日系二世との結婚も相当数あったが、ほとんどが白人や黒人との異人種間結婚であったため、国 際結婚が珍しかった当時、恥ずかしい行為であるかのようにみられた。日本でもアメリカでも映画、小説、 新聞、雑誌などに取り上げられたが、日本ではアメリカ兵相手の「夜の女」という事実と反する不名誉なレッ テルを貼られることが多く、女性たちを長く悩ませることになった。夜の女と呼ばれる女性が含まれてい たとしても極少数で、大多数の女性たちは戦後の混乱期に家族を養うために米軍基地で仕事を得た高学歴 の女性たちや、基地でハウスメイドとして働いた女性たち、基地周辺で米軍を対象とする商店店員として 働いた女性たちであった。
他方、アメリカ国内では、日本人花嫁はエキゾチックな物珍しい存在とみられたり、同化不能とさげす まれることもあったが、多くの戦争花嫁は夫に従って見知らぬ国に移住してきた勇敢な女性たちとして歓 迎されたり、妻としてアメリカ的な家庭を築き、進んでアメリカ社会に適応したモデルマイノリティとし てもてはやされたりした。事実、戦争花嫁の多くは専業主婦としてアメリカ流の家庭を築き、子どもたち は高等教育を修めて専門職についた。今は、安定した豊かな老後を迎えている人が多い。

D.ハワイに渡った戦争花嫁(軍人花嫁)
ハワイには約2,000 名の戦争花嫁が移住した。ハワイでは戦争花嫁は「軍人花嫁」と呼ばれた。当時の ハワイはまだアメリカの準州であったが、ハワイの花嫁の入国にあたっては、同じアメリカの法律が適用 された。
ハワイの軍人花嫁の状況は、アメリカ本土の場合と大きく異なっていた。それは大きな日系社会が存在 していたからである。当時のハワイ人口の約三分の一が日系人(一世と日系二世)でありハワイ最大のエ スニックグループだったので、それを反映して、ハワイの軍人花嫁の結婚相手の多くが日系二世の占領軍 兵士であった。日本人花嫁はハワイ日系社会に歓迎された。その他、白人、ポルトガル系、フィリピン系、 中国系、韓国系と結婚した女性たちもいた。
進駐軍として日本に来た二世兵士は、父母の故郷を訪問し、親戚の世話で日本の女性と見合いをした。 同じ故郷の女性と結婚する場合、両家の合意の見合い結婚と変わりなかった。その他、多くの二世兵士は 他の兵士たちと同様に、アメリカ軍基地、軍関係の会社、アメリカの軍人を相手にする商店やレストラン 等で日本女性と出会って恋に落ちた。他の人種の兵士との結婚に比べれば、ハワイの日系社会は二世兵士 との結婚に対して寛容だった。また異人種間結婚でもなかったので、花嫁への蔑みもよりゆるやかだった。
当時のハワイは白人が政治・経済を支配する社会であったが、軍事基地以外の白人人口は少数派であり、 アロハ精神とよばれる人種的寛容の伝統もあり、アメリカ本土のような人種差別がなかった。ハワイ最大 の民間人人口を占めていた日系人は、自由に日系社会を形成し日本文化を謳歌することができた。ハワイ の軍人花嫁たちは、本土に渡った戦争花嫁のように主流社会から同化のプレッシャーを受けることはなく、 エキゾチックなもの珍しい存在という目で見られることもなかった。またハワイの日系社会は、軍人花嫁 を日本文化伝統の新しい継承者として期待をもって迎えるという側面もあった。なぜなら、二世はアメリカ人として成長し、一世とは異なる価値観や文化をもち、日本語よりも英語が母語となっていたからであっ た。戦争花嫁は日本語を使う新しい世代として、日本語学校や日本語放送局、そして日本人観光客が増え ると観光業界でたくましく活躍した。

おわりに
花嫁たちの国際移動は、時代的にも空間的にも広く見られる現象であり、移民史上の重要な要素である。 出稼ぎ移民は男性が中心になることが多く、独身で祖国を発った男性たちが移住国に定住するとき、花嫁 が祖国から海を渡っていく。女性たちが海を渡ることによって安定した移民社会が形成され、次世代の誕 生によって移民社会の継続性が生まれる。また女性たちは労働者としての役割も果たす。夫とともに畑や 工場で汗を流し、また女性にしかできない仕事(家政婦や洗濯婦など)に従事して家計を助ける。その歴 史は繰り返されている。
この企画展は日本人女性の「写真花嫁」そして「戦争花嫁」と呼ばれた花嫁移民を取り上げているが、 彼女たちは決して過去の、特別な存在ではない。広い女性史の視野からこの女性たちがたどった人生を捉え、 現在の各地の花嫁移住者たちへの理解を得られることを願っている。そして、夢をかけて新天地に挑戦し た女性たちのたくましい人生行路から、今を生きる私たちに元気をもらえたらと願っている。

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